2015年1月16日(金)
年末に大掃除をしていたら昔の写真が出てきました。
祖母の顔は、離れて住んでいたのでほとんど記憶になくて、たぶん遊びに来たので記念に撮った写真なのでしょう。ああ、そういえばこんな感じだっけかなあ。という程度ですが、後ろに写っている家の記憶は鮮明です。
写真の裏には昭和39年と書いてありますが、この時点で相当な年季が入っております。
昭和39年(1964年)といえば東京オリンピックの年で、私が2歳の時です。記憶に残せるほど大きくなった頃には壁の漆喰などは修繕していたのでしょう、白く綺麗で庭ももう少し整っていました。
そしてもう1枚。
右側に姉が写っていますが、一番手前の子供がなぜか私ではありません。
後ろの洋館風の部屋が、最初の写真と同じ棟続きで一軒の建物となっています。
向かって一番左に竹格子の丸窓の付いた茶室風の和室があり、その右の縁側の奥が居間になっていて、そこから土間を伝い土足で入る、フランス窓の付いた洋風ダイニングに通じています。
さらに、バナナの樹が生えている庭を挟んでもう一つ建物がありましたが、ここはすでに倉庫として使われていたので、ただ暗くてみかんの木箱が積み上がっているだけの、かくれんぼをするときだけ入るような建物でした。それと外の道に出るために上がっていく坂の途中にもう一軒の倉庫。ここもみかん箱やら道具類で埋まっていました。
しかしこの二軒の倉庫も以前は住まいとして使われていたような作りになっていて、全体的には小さい山の中腹の土砂を削り、周りから目につかないような形で一つの敷地の中で三軒の家が建っているという感じです。
小さい子供にとっては、そんなちょっと風変わりな家に住んでいることなど意識するはずはなく、遊びどころ満載だけれど古くて寒くてちょっとジメジメとしていました。
大きくなるにつれ「お前んとこの家、変やなあ。」とか言われて、友達を呼んで遊ぶのが恥ずかしくなってくる、そんな家でした。
南紀新しき村。
その後、高校生になった頃、老朽化に耐えかねて少し離れた坂を上がったところに新しく家を建て移り住むことになりました。
それから長い間この家は倉庫として使われながら半ば放置されるのですが、実はその風変わりな家は、大正時代に武者小路実篤が九州宮崎に創った理想郷「新しき村」をなぞらえ、「南紀新しき村」として創られたということを知ったのは、家が建っていた山ごと造成されて跡形もなくなってしまってからでした。
「黎明が丘」と名付けられたこの家は、当時社会主義者やアナーキスト(無政府主義者)達のアジトと目され、軍国に突き進む国家官憲の監視下に置かれて迫害を受けながらも、なお日本の夜明けを夢見る若者たちが理想郷をつくるために共同生活を送っていた場所だったようです。
その後、昭和になり、戦争が終わり、私の父がみかんを作るために和歌山からこの熊野の地にやって来た時には、「新しき村」も「黎明が丘」もすでに消え去り、いわれがあるとも知らず残った建物だけを買い受けたということらしいです。
今となっては文化財的価値があるように思えるのですが、その当時我が家は貧しく、半世紀以上経っている半ば朽ちかけた家で雨風をしのぐことだけで精一杯の状態だったようです。(幼いながら私にもそのような印象がありました。)
近年、大逆事件から100年という節目もあり、彼らの名誉回復の動きとともに「黎明が丘」の価値もクローズアップされてきたようで、たまに問い合わせがあったり、見学者が訪ねてきたりします。
今となってはみかんの樹が並んでいるだけの平らな土地に案内して「たぶんあの辺りに…」なんて二人で違う所を指さしたりするわけですが。
「黎明が丘」が地名ではなく、建物の名前だったことすら知らなかった父と、自分の通っていた中学校の校歌に自分の住んでいる家の名が詠まれていることなど気付かないその息子。
父はあとから「あんなの(父のこと)に売ったりするからや!」という声も聞いたらしいですが、その当時は「文化価値があるので保存の方向で…」とかいう話はなかったらしいです。
そんなことで、うちに残っている「黎明が丘」の写真はこの2枚だけですが、これを見た途端、写真には写っていない裏側や屋根から見た景色、風呂を沸かしているときの薪の匂いまで鮮明に思い出しました。
昨日の夜ご飯の献立さえ思い出せないのに不思議なものです。